人々が、柔らかい陽光の入る窓辺にくつろいだり、ゆっくりとした足取りで辺りを散策するのは、この地上、あるいは自然の起こしていく美しい情景に、全く受け止められているといった強い確信が在ったからである。笑顔を絶やさぬ老人達の、まるで、歳を重ねる毎にその刻みはなお深くなっていくような華やかさの中に、私には決して見ることを許されないような、豊かな至福が息づいているようだった。本当に、それらの陶酔は、突き詰めれば自分ひとりだけの空しい幻想であるかのように思われるのだが、確かに、私の周りで繰り拡げられる賑やかな仲間達の熱い談話は、私を癒してくれそうに見えながら、常に私の情景の向こう側で展開されている私には決して触れられぬ魅惑的な世界の出来事のように見えているし、私がいくら、すべてを静観するという完全受容的精神で今のこの時間を生きようとも、残されていく膨大な情動の痕跡は私の大切な時間を切り裂くように痛めつけるのだったが、老人達は、まるで遠くに、次の、さらに刺激的な世界を見ているように安らいでいるのだった。私は、そのような穏和な情景の中で、私自身もまた、その老人達と同じ境地を共有できるような微睡みに包まれながら、別の違った場所で、亡くなった老人が突然生き返ったり、また、病に伏した者たちが元気に動き回る話題を何度となく聞くのだった。さらに不思議なことには、そうした奇跡的な回復の真っ直中に在りながら、自ら望むように倒れ、死にゆく者が、少なからず居るという事態である。彼らは決して、この世を疎んだり、また苦悩に押し潰されそうになりながらそうするのではないのである。 |