Creator’s World WEB連載
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第1回 第2回 第3回 第4回
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地下五百階の住人たち――最後の呪縛を通り抜けた場所

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第一章

 その近代的な街の中にも不思議な場所は幾つか在った。あの極限的なオレンジ色の円筒暗喩の隠れ潜んでいた地下倉庫だけではない。たとえば、暗い掲示板室に至る通路とか、大僧院の崇拝の対象となる区画とか、また、そのほか常に回想に絡み付いてきた胎内的部屋とか、数え上げれば果てしないほどに在る。だが、私は、それらの視覚で捉えることのできる空間とはまた別に、この世界にはあり得ないような霊媒的なある場所を今、空想している(空想と言えどもまさにそこにありありと居る証拠として、私は目覚めたあとにもはっきりとその細部を意識することができる。もちろん輝かしい太陽の光を浴びてのことだけど)。そこには、件の美術館の外壁に眠る阿羅漢の砂時計と同じほどの重みを持った確実なメタファーが展開されてはいた。人々が過剰な憧れを持ってその方角に走るのであろうメタファー。それは、ついに、水晶珠に結実したり、空を飛び地下を巡る未来の乗り物に異化するのだろうけれど。日常の営みを牧歌的に過ごしている平穏な商業的家庭の、何気なく開けられた地下室への扉を引き、その下方に続く長い階段を何時間も掛けて降り、もう赤い溶岩が溢れてきそうな地点まで達すると、そこに、今までも同じように普段の生活を紡いでいたような、極めてありふれた、穏和で優美な一家族が居た。その団欒の部屋の中に入り、指し示す通りにその部屋の奥に下がる簡易エレベーターに乗ると、眼下に打ち寄せる浜辺が展開され、件のエレベーターがその青い海面付近まで降下すると、そこには、地上の海辺では決して見ることのできない紫紺の真珠が、穏やかに寄せる波に揺れ、打ち上げられていた。

 



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第二章

 これより下方に降りていくことは許されていないとその一家族の主人が告げると、私は、その眼下に深い青色の海を感じたまま、その極上の美しさに戸惑いながらも、先程の団欒の中に戻った。彼らは、その浜辺で採れた海草や貝類を食していたが、それが、まるで、地上の日常と何ら変わることのないほどの素直な生活感を刻み上げていた。この隠された場所に至るために、私は随分、様々な危険な区画に冒険を試みたが、この場所は、呪縛とは程遠い、簡単に世界の図式の中に組み込まれてしまうほどの明朗な関係性を私に感じさせた。なぜなら、その紫紺の真珠は、その部屋で簡単な梱包を施すだけで、全世界の市場に流れていっていたのだから。誰もが。振やかな都会の恋人達ですら、そのポピュラーとなった紫紺の真珠を体中に飾り付けていたのだから。誰一人として、その貴重な、容易に手に入れられる重厚な宝石の原産地を探る者はいない。それは、おそらく不思議な場所で丹念に育て上げられているのだろうとしか思わない。この区画は、たとえ、どこがで進路を見失った飛行体が辿り着いたとしても、快活な演繹でその事態を一笑にし、鮮やかな夢を見ていたと、その遭難者に思わせる特異な力を持つのだろう。不思議な場所というのは、そうした明らかな、あたりまえの情景の中に在るものだ。私が回想の中に見るものも、その同質の輝きを持ったまたひとつの場所なのだろう。生き生きとし、私全体が動いているような現実感覚。回想も、また空想も、決して私から起こされるのではない。吹き抜ける風の中に、暖かい陽溜まりの中に、それは、静かに始まるものだ。


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第三章

 私が席を立ち、その穏やかな家族の許を去ろうとすると、主人は、「よく、こんな隠された場所に来てくれたね。しかも、何の疑念も持たずに」と言った。娘は、食していた海草を手早く銀の皿の上に置き、後ろの戸棚の中から、きらきらした林檎をひとつ取り出し、私に手渡した。「これ、記念に持っていって。わずかな疑念で輝きを失ってしまうから気を付けてね。それから、私たちのことを忘れないでね。 私たち家族はどこにでも居るんだから。注意を払って、景色や影像の音調を聴けば、必ず私たちの生きて生活している状態が分かるから。ねっ」私は、娘の差し出す林檎を受け取りながら、その林檎の、僅かに紫がかった色調の狭間に、美しいと言うにはあまりに深遠な根源的予兆を見て取るのだった。この感じは、私がさわやかな午後の風と光に包まれてまどろむ数瞬ほどの美味なる安らぎに似ている(まるで永遠の平安を歌い上げるような)。そこには必ず、帰るべき部屋の印象が些細な回想を引き連れて浮き上がり、その印象は、すべての私の生きてきた時間を円熟のまとまりとして浄化し、掛け替えのない大事なことであろうとも、あらゆる営みは本当に壊れゆくまぼろしだからと、私の真撃な追求の手を優しく振りほどいていくのだ。長い階段を登ろうとする私に駆け寄る娘。回想が絡み付く部屋の中に現れる海辺ではしゃぎ遊ぶ仲間たち。「林檎は、地上に出るとき、誰もが消失するから」。笑顔を返しながら暗い足許を探る。主人の軽い微笑み。娘の哀愁。暗い階段の向こうには、日常の息吹が満ちている。ああ、この寛大な家族をあきらかに覆っている不思議な軽快さと濃厚な一仕草ずつは、その場所だけではなく、全世界を巻き込むほどの超越的な真理に見えるのに。


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第四章
 階段を登り切った私は、扉を引き、明るく来客と会話するその商業的主人の丁重な出迎えを貰った。この、陽の当たる場所に辿り着いて思うのは、あの一種の鈍重な明快さ(隠された家族たちの、紫紺の真珠を売りさばくことだけを生業としいるものの、そこに永遠の真理が存在するような美的な魅力または深さ)こそが、私が今まであらゆる負荷を積極的に持ち込みながら探し求めてきた印象であるにもかかわらず、主人たちの、その陽に当たるたくましい笑顔の上に、件の神秘を超えてきらめく崩されることのない調和を見て取るのだった。街の不思議な場所、霊媒的な、救済的な、隠された暗喩、そうした場所を巡り、体感する一連の営為の後で、どこにでも神秘は開かれると言った地下の娘の言葉の通り、あちらに、こちらに、私は、美の音調を聴くことができるのだ。店の主人が奥に引き下がると、私は、売り物として並べられた林檎の、少しだけ売却された木箱の隅に、娘から貰った神秘なる林檎を、まるで同じ種類のもののようにして置いた。だが、しかし、その娘の林檎の幻想的な色彩が色褪せるということはなく、また、木箱に並べられてあった林檎の数々が光り輝くということはなく、それらは、すべての周りのものたちの自然な、極上のきらめきに同化し、あらゆるものごとを、(戦いの中に在りながら、食い食われる過酷な生存競争の中にありながら)心の底から真正に讃えているように見えるのだった。