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五分の一 (大地の芸術祭) 第一回(8月16日)

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 昨年八月二十二日、千葉県の柏市に住む妹夫婦が帰省していたので、三人で大地の芸術祭の見学に出掛けた。
 「大地の芸術祭」というのは、多くの現代芸術家が創作した作品群(第三回目である今回は作品点数は329といわれる)が、信濃川の上流から中流にさしかかる・ここ越後妻有盆地の広大な地域の方々に展開されている。三年に一回というトリエンナーレ方式の非常に規模の大きい芸術祭である。
 大地の芸術祭の始まりは1994年に策定された、県の地域再生事業である「ニュー新潟里創プラン」にある。妻有地域もそのプランの中に取り込まれ、一市四町一村でなるこの地域では、「越後妻有アートネックレス整備構想」の下、美術を地域再生の手段として用いることになった。
 妻有地域の人口は七万人くらいといわれている。非常に高齢化が進んでいて、65歳をこえる人たちが25%以上といわれる。地元の特産であった機業も衰退し、高学歴化とともに、若者たちは学校を卒業するのを待つかのように、どんどん都会での就職を求めて出て行ってしまう。Uターンの夢を彼らに託すのは無理といった現状である。
 この地は世界有数の豪雪地域であって、過疎と少子化に直面している。言うまでもなく、目の届く限り広く稲作がなされている立派な田原も見える。多くは、有名な「魚沼産コシヒカリ」の田んぼである。だが、山すその斜面を棚田にして、稲作をしなければならないような非効率的なところもある。
 また、日本一の大河・信濃川がこの地域を南北に突っ切って流れている。だが、その水は多く東京方面の電力需要のために供給され、最近では流水量はきわめて少ない。川の中州が現れて点在している。それなのに、妻有地域は隣の南魚沼地域とは異なって、鉄道の幹線が通っているわけでもない。交通の点からしても、首都圏に対してまったくの過疎、置き去りにされた地域である。



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五分の一 (大地の芸術祭) 第2回(8月23日)

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 このままではこの妻有地域は衰えていくだけで、将来への展望がまるで開けないことともなりかねない。かくて、先に触れた「ニュー新潟里創プラン」の中に、妻有地域の再生ということが取り上げられたのだった。
 何事を為すにしても、最初の時には参考にして良い前例もない。当然、大地の芸術祭にしても第一回目には難問山積みの連続だったようである。六市町村の議員たちは、「美術による地域振興」の計画には全員が反対の様子だった。それが大地の芸術祭提案当初の状況だった。
 さらに琵琶湖や東京23区の面積より広い、762キロ平方メートルに広がるところに200からの集落が散らばっている越後妻有である。その集落の中のどれだけが芸術祭の企画に賛同して協力してくれるのか ―  それも問題だった。2000年の第一回目の芸術祭では、32カ国148組のアーチストが参加してくれたが、集落でアーチストを受け入れたのはわずか5集落にとどまった。したがってアーチストたちはなかなか集落内の建物を使用させてもらえる状況にはなくて、多くはパブリックアート― 公園や公共の建造物の庭先などに場所を求めて作成したものという。
 芸術祭終了後も何年にもわたって、取り壊されることなく人々の目に触れている作品の中には、すっかり地域の風景に溶け込んでしまっているものもある。たとえば、車に乗っていくといつも目に入るのが、松代の棚田の中に作られている「棚田」という作品。農耕する人や牛を実物よりやや大きめに模った作品である。黄色を主体とした作品の、前かがみの田植えの人や代掻きに追われる牛の姿が遠方からでも目に入ってきて、「おやっ、なんだろう?」と思う間もなく、それは大地の芸術祭第一回目の作品なんだと納得がいく。この「棚田」には人気があった。作品が展示されている棚田の持ち主である老人は、「年取ったから、もう農業は辞めようかと思っていたけど、こんなに人々がやってきてくれるんなら、もう少し続けようか」と言い、作品をバックに田んぼの作業をするようになったと聞く。



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五分の一 (大地の芸術祭) 第3回(8月30日)

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 また「光の島」といわれる作品。十日町情報館の南側に、垂直に、あるいはいくらかの傾きを持って、六本の十メートルもあろうかと思われる太い柱が立てられている。はじめのうちは何物なんだろうと思うだけだったが、情報館の職員が「あれは芸術品なんです」といって説明してくれた。それによると、第一回目のときからの作品で、六本の柱は六市町村を意味し、夜になると薄く、白、青、緑、黄などの光を放って、ブナの林をイメージするのだとか。あんな、さして見る価値さえないような柱の群れ― 情報館職員の説明がなかったら依然として疑問の残る作品であった。
 母が逝ってしまったのが、第一回目のときの最中だったので、葬式やその後始末で結構忙しかった。兄弟たちの誰もが悠々と大地の芸術祭を楽しんでいる心境にはなれなかった。したがって、第一回目の芸術祭についての思い出はない。「棚田」とか「光の島」と言った作品については、もちろん芸術祭後も保存されていて、それをたまたま目に留める機会があったというに過ぎない。
 第一回目のときにも観光用の巡回バスは走っていたという。だが、大地の芸術祭の知名度の低さからして、はじめのうち、巡回バスはガラガラの状態だったらしい。ところが、8月上旬になって芸術祭の模様が、一部のマスコミに取り上げられたのがきっかけだったという。それからは来訪者はうなぎのぼりに増え、巡回バスも満員の状態が続いたと言われる。



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五分の一 (大地の芸術祭) 第4回(9月6日)

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 また、このときの松代の老夫婦の話も伝わっている。八十歳を超えるその老夫婦は、訪ねてくる人たち一人一人に芸術祭の期間中というもの、お茶や茶菓子を振舞い続け、その数、実に一万人以上に及んだという。そのような底辺からの地元の人たちの応援は、企画者たちを大変喜ばせ、元気付けてくれたに違いない。ただ、おじいさんの方は芸術祭終了後間もなく、その秋には逝ってしまわれたとの話である。
 二十二日の朝、ポツリポツリと雨のあたる中、私たち三人は9時40分過ぎにはタクシーで、巡回バスの発着地点である十日町駅西口へ向かった。シャツは半そで、靴はウォーキング用のズックという軽装である。乗車手続きを済ましてバスに乗り込んだ。乗客が満員になると、10時15分にバスは出発した。
 出発するとすぐ、運転席近くに座っていた若い女性が立ち上がった。背のすらりとした細身のスタイルの良い姿である上に、丸顔も肌色が白くて、よく整っている。二十歳になったかどうかといった感じである。
 「皆さん、おはようございます。私、こへび隊の横山と申します。今日は一日、私が皆さんのお付き合いをさせていただきます。今日は楽しい一日になりますよう、精一杯努めさせていただきますので、何なりと御用を言いつけてください。また、何かと私の方からもお願いする場合がありますので、ひとつよろしくお願いいたします。」