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第1回 第2回 第3回 第4回
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和城伊勢LINE

第1回

いま なぜ 江戸なのか?
マクロには平和。ミクロには しぐさ。どちらも根本は江戸。
明治以後は、のべつ 幕なし の戦争。昭和の後半は、そのあと始末。
人々は、平和の「しぐさ」を忘れてしまったようです。
私の目に うつる 今の平和は、とりあえず 戦争が ないだけの平和。
私は、なにも むずかしいことを 言おうとしているのではありません。人は、だれでも
ふるさとは なつかしいものでしょう。私の故郷は たまたま江戸です。だから「江戸」を懐かしく思うと
同時に大事にしたいと考えるだけです。(故浦島太郎原稿より)

さて 現代応用編・講座「江戸しぐさ」、第1章で“しぐさの第一歩”を公開しましたが、
好評でございましたので、第2章を ご披露いたしましょう!

江戸の良さを見なおす会
代表 和城伊勢

講座 「江戸しぐさ」第2章

 町歩内畜生しぐさ

かぶき(歌舞伎)の題目みたいですが、これを「まちあるきのうち、ちくしょうしぐさ」
というようです。
「むく白もしねえょ」と言って きつく いましめられたそうです。
「むくシロでさえしない!」ということを知っている人は 東京大空襲で ほとんど亡くなられたそうです。
とにかく、動物と人間は違うから人間は人間のしぐさをしなさいということのようです。

 ねこ

猫。あいびょうか には悪いけど、ねこのように「おさかな」をくわえて歩く人を そう呼んだそうです。
お魚とは この場合は食べ物の総称です。そこでパンを食べながら歩いたり、ジュースを飲みながら
歩道を歩いている人たちを「猫やろう」と言って注意したり さげすんだりしたそうです。
愛猫家に言わせると、「とんでもない!うちの猫はちゃんと お皿にもったものでないと食べませんよ」ですって!
してみると、このごろは 人間さまのほうが猫より程度がおちたのね。

 うし

猫と同じようなものだけど、食べたものをポロポロ道にこぼしてながら歩く子どものことだそうです。
牛は草などを はんすうしながら よだれをたらして歩くことから こういう言い方が生まれたのでしょうね。
「よだり(涎)ったらしッ」という人もいたようです。江戸の一部では「よだれ」をヨダリと言うところもあったとか。
牛やヒツジは反芻動物だから当然でしょうけど人間が涎を垂らしながら歩くさまはきれじゃないわね。

 いぬ

これには いろいろな意味があるようですけど二つほどあげておきましょう。
「電柱、」にと言えば あとは言わなくても判るように道ばたや人家の垣やヘイをトイレと間違ってしまう人のこと。
と、もう一つは おわんに顔をつっこんで食べたり、食べもののパッケージなどをくわえながら歩いている生徒のこと。
今なら そういう人をさしたようです。



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第2回

 お嬢さんの天下

江戸時代は男社会。でも「大江戸」だけは女社会だったようです。理由は 参勤交代などで男性と女性が入れかわって江戸づめをしたことと、大店(おおだな)の江戸暮(えどぐらし)は男性だけでだったため。
 大店の江戸暮は いまふうに言ったら各地から東京に単身赴任して来ている人。と、もう一つ、なぜか江戸では女性の一人っ子が多かったそうですね。
そのため いまで言えば 女社長が やたら多かったようです。そうなれば 当然「女性優位」の社会になりますね。
ただ いばっていても他人はついて来ないから江戸の女子教育は男性の比ではなかったそうです こういう国は世界にも例がないそうです。br>  つまり、女の一人っ子には 徹底した「あととり娘」の教育をして、立派に身代が継げるように実力をつけたんだそうです。身代は財産とか会社のことです。

 畜生しぐさを誡めるとき

例えば、子どもが左手に缶を持ち、右手でストローをとって缶にさしこむところまではいいのですが、
そのまま歩き出して子ども部屋に行きかけたり、とくにストローを口にくわえたまま手をはなし、
顔を動かして缶にさしこんだり、ストローやスプーンを口に入れたまま 歩いているようなとき、
「猫や犬のまねをしないのよ」というように親は注意したそうです。
 小さい子には「おねこちゃんじゃないでしょ」とか「あらあら、いつからワンちゃんになったのかしら」という具合に やさしさとユーモアで さとしたそうです。
 お嫁さんが、子どものそういうシグサを放任させていると おしゅうとめさんが、「まあ いやだわねえ。孫を 犬や猫にしたてかえて。みっともないことを」
とこぼす家もあったとか。したてかえるは 作りかえるとか育てかたをしてしまったという意味です。

 江戸小町

いまは「小町」といっても若いかたには ぴんとこないじゃないかしら。「こまち」は おののこまちが美人だったというので江戸では小町は美人の代名詞だったようです。
古い文章には小町娘という形で出てくることもあるようです。こいき・こぎれい・こじっかり!
これが 江戸美人の三要素だったそうです。「こ意気」はイキイキとして意気のいいこと。ぐったりしたのはダメ。
「こ綺麗」は さっぱりとして清潔なこと。うすよごれたのは資格なし。「こ確」はシンがシャンとして しっかりしていること。あなたまかせは いけません。
小意気、小綺麗、小確と「小」の字が付くので、小さいとか少しというふうに思っている人も多いようですが、むしろ「大きい」という意味のようです。



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第3回

 顔は二の次

 昔は「かおはにのつぎ」だったそうです。
二の次とは、二番目という意味もありますが、この場合は(というより江戸では)シグサに応じてというように言われていたそうです。
 つまり「しぐさが良い人は顔もいい」とか。
「顔が良い人はシグサを良くしなければいけない」というのは現代的な解釈だそうです。
 江戸のころには、人間が「形」と「心」でできあがっていて この二つは死ぬまでバラバラにはならないものと思われていたそうです。
右のかたち左のしぐさのマンダラ模様が、この世の人間の姿だったそうです。
 まんだらのことは どこかで調べてください。江戸を知るには まんだらを勉強するのが一番のようです。
 むずかしいお話は先にして、ある顔に対応するシグサは一つしかない!という考えからのようです。
 だから、しぐさを型として説明するのは ほとんどまちがいだそうです。
いま 世間でシグサのことを「ふり」とか「ポーズ」と混同している人が多いので、この本をお読みになって それが まちがっていることをPRしていただけたら書いたかいがあります。
猫のシグサは猫だけのもので、犬にはないのですね。また 犬のシグサは 犬だけのもので猫にはまねられないもの、そういう考えかたなのです。
 猫が犬のシグサをしたら「それは おかしい」だから漫才や落語だ!というのが江戸の町衆の考えかたなんですね。
そこで落語にでてくる はっさん、くまさん、よたろうなど、なれは 人間じゃないんですね。つまりあんな人たちは、この世のどこをさがしても地球上には存在しない火星人のようなものなんですね。
 それを程度の低い人たちとか、知恵おくれの人と思うようになったのは 明治以後の発想なんだそうです。

 いろんなシグサ

 例えば 犬のシグサといっても犬によって さまざまですね。チワワ・プードル・マルチーズ・ポメラニアン・ヨークシャーテリア・チャウチャウ・パグ・パピヨン・シーズー・シベリアンハスキー・シェパード(千さんの元奥さんじゃないのよ)ニューファンドランド・セントバーナード・キャパリアキングチャールズ・シェットランドシープドッグ・犬・グレートピレネーズ・レークランドテリア・土佐犬・ピンシェル・野良公?(これだって入れてやらないと犬権の侵害?になるわよ)パニエル・秋田いぬ・ブルドッグ・スピッツと思いつくままに書いてしまったけど、犬それぞれに みんなシグサが少しづつ違うわね。
 でも猫とはぜんぜん違うのね。だから一見して「これは犬だ」ってすぐ判るのよね。ふしぎね。
 いくらワンちゃんが ブラウスを身に付けてきても「あら、お隣の奥さま いらっしゃいませ」とは言わないでしょ。本気で言ったら それこそ落語ね。

 かたておちはダメ

 犬のことを書いたら猫のことも書きなさい!
かたておちは いけなくってよ!
 それが 江戸小町のシグサの元になっていた考えかただそうです。
シャム・ペルシャ・チンチラ・バーミューズ・ヒマラヤン・トルコアンゴラ・三毛ちゃん?(江戸の花形スター キャットもいれておきましょう)パリネーズ・レックス・エジプシャンマウ・アビシニアン・ラグドール・アメリカンショートヘァ・どら公?(こんなものもいるでしょ)と、猫好きに言わせたらこんなものじゃないと思うけど とにかく猫には猫のシグサがあって、同じ猫でも種類によってシグサが、それぞれ違うのね。同じ種類でもオスとメス、個体によって 全部違うのよね。
複雑ね。それでも全体を通して見ると猫なのよね。犬でもネズミでもないのね。
 ほんとに不思議と思いません?
 造化の神の妙(みょう)としか考えられないわね。



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第4回

しぐさを楽しむ

 犬や猫を簡単に捨ててしまう人が ふえているんだそうですね。芝先生がおっしゃるには「それはスタイルや値段に ほれて買うからでしょう。飼うのではなくて買うのでしょう。スタイルはエサをやり過ぎれば太くなってしまって買ったときのイメージとは違ってしまうでしょう。値段も同じです。円ドル相場のように 自動車でも動物でもすべて物の値段は変動しています。
 そこで かっこうや値段にひかれて手に入れたベッドは 古新聞と同じように あきたらポィとすててしまうわけでしょう。
 ところがシグサに ほれて手に入れたペットなら自分の分身か 自分と一体化してしまうから 死んだらお葬式まで してやりたくなるものです。
 そうかもしれませんわね。
ペットを手に入れるときは しぐさに ほれたかどうか よく考えて買うことね。
 このグレートピレネーズを連れて歩いていたら「35万円 と見られるかしら!」とか
あのロシアンブルーをだいていたら「15万!と思われるかしら」ってな 気持ちで買わないことね。
 そんなことでなく、ほんとにシグサに気にいったら(そして出せるなら)お金なんて問題じゃない!というのが江戸しぐさ。そうなんですってよ。
 不思議なことに ある人に気に入るシグサは たった一つしかないんだそうです。だから 他人には価値のなさそうな野良犬でも その人にとっては かけがえのない大事な分身になるわけだそうです。
 みんなが かわいいといって見ているのは よく考えてみると やはり かっこう なんだそうです。
 シグサを見る目や本当にシグサをながめる楽しさの まだ よく判らない子どもには 友だちとしてペットと遊ばせることは大事でしょう。これが江戸の教えのようです。

ハチ公のシグサ

 渋谷の忠犬ハチ公のお話は このごろでは みんなよく知っていますね。芝先生は「戦争は とうの昔にすんでしまったのに まだ忠犬なんて言っているのは どんなものでしょう。
あれは 江戸しぐさから見たら ご主人(飼いぬし)とシグサが同じだっただけ と言えます。
同じだっただけといっても これが一番大事ですべてなのです。
 おそらく もしハチが口をきけたら 飼い主と自分は本当の友だちか 実の子どもだと主張するでしょう。まさかハチ公は 自分が犬だなんて 少しも思ってはいなかったでしょう。」
そうなのね。いままで私たちは ハチ公の忠義や心の行動を ほめたたえたり 聞いたり そう教えたりしていたけど これからは発想を変える必要がありそうね。
 顔に対応するシグサが一つしかないように、ある人に対応する動物のシグサも一つしかないという考えかたを見なおしてみる必要もありそうね。

第二章  終わり