Creator’s World WEB連載
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第1回 第2回 第3回 第4回
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1、薄い記憶の 光の中に

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 子供の頃、夜の闇はあくまで暗くその漆黒の底で私を怯えさせる何かが漂流していた。しかし、その闇の暗さとは逆に、月明かりは眩いばかりに当たりを青く照らしていた。もうあの頃の夜の闇に出会うことはなくなってしまったし、同時に青く冴えわたる月の明かりを見ることもなくなった。夜空に広がる星や月の輝きがなくなってしまったわけではない。晴れていれば仕事の帰りに空を見上げてみると、いつもの星や月が街路灯の明かり越しにきらきらと輝いて見える。今の時代を過ごしていると、子供の頃の夜の闇が私の夢の出来事のように思えてくる。十代の頃、メキシコの画家ルフィーノ・タマヨの絵画に惹かれた。タマヨは悲しげな夜を土俗的な幻想で描きだす「夜の画家」だと私は思っている。この画家にとって夜は自らの幻想が飛び交う格好の創造世界だったのだろう。タマヨは夜の闇の中に激しい悲しみや恐怖を民族的なファンタジーで描いている。私が嘗て感じた青く冴えわたる月明かりの景色は、煌々と照らす月光のもとで全てが重く固まっていて動きのない静寂の世界だった。

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「ラ・フランス頌」から
「薄い記憶の 光りの中に」



第1回 第2回 第3回 第4回
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2、窓の外は 不思議な雪

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  Nさんのアトリエで石膏デッサンを教えてもらうようになったのは、昭和44年の春だった。二度の芸大受験失敗後のことだ。私のデッサンは書き出しからどうなっていくのか自分でも分からない代物で、1枚仕上げるのに3〜4ヶ月かかっていた。その間に、教室の他の連中はどんどん仕上げていくのが羨ましかった。悪戦苦闘の後やっとのことで出来上がったそのデッサンを批評しながらNさんは、「芸大受験ではこれを一日で描くのよ。」とあっさり言われた。私はその言葉にそれほどがっかりしなかった。なぜなら、私のデッサンが芸大受験に通用するレベルに達しているというふうにかってに解したからだ。その後もこつこつと描き続けていて次の年の春を迎えていた。あれはモリエールの像を描き始めたときだった、僅か描き始めて、私にはこのデッサンの仕上がりが予測できるようになっていた。その画面を見て、Nさんは初めて「デッサンが分かってきたようね。」と言われた。私はその春も芸大受験に失敗し、描き差しのモリエールのデッサンを仕上げることなくカルトンからはずしてその教室を去った。

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「ラ・フランス頌」から
「窓の外は 不思議な雪」



第1回 第2回 第3回 第4回
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3、予感、夏の疾走 帰らない人

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  恩師であるTさんの危篤を知らされていたが、以前から計画していた長野旅行に出かけた。妻の母が一度行ってみたいという善光寺と私がかねてから訪ねてみたかった松代にある池田満寿夫美術館への旅だった。夏の終わりとはいえ残暑が厳しい善光寺の境内は沢山の参拝客で溢れていた。もうもうと立つ線香の煙の中で我々家族のこととTさんのことを祈った。翌日、池田満寿夫美術館に立ち寄った。私はこの版画家が好きだ。1964年に制作された「化粧する女」は私の感性にとって根もとに敷く肥やしのようなものだった。久しぶりの作品との対面に心が躍った。京都に帰る途中、携帯電話にTさんのただならぬ状態が知らされた。名神高速を京都に向かって私はひたすら走った。今更どうにもならないが、ただひたすら走り続けた。この世のものとも思えないような大きな夏の夕陽が京都の方角にゆらゆらと沈んでいこうとしていた。夕陽が私の目の中で二重に見えた。私の車が京都市街に入ったちょうどその頃、大きな命が静かに早過ぎるその生涯を閉じていた。

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「ラ・フランス頌」から
「予感、夏の疾走 帰らない人」



第1回 第2回 第3回 第4回
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4、紳士のつぶやき

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 最近、コブクロと言う二人組の歌手の歌が好きで、聞きながら机に向かうことが多い。ずっと以前のことになるが、ロバータ・フラックの「やさしく歌って」という歌が流行ったことがある。一度聞いただけでその歌を買いに走った。夏の風のように流れるこの歌が私の心を透かしていく快感がたまらなかった。風を描いた絵画にアンドリュー・ワイエスの「海からの風」という作品がある。嘗て、日本国内を巡回したワイエス展の展覧会図録を友人に見せてもらって直ぐにこの絵の虜になった。ワイエスのことやこの絵の制作過程について何の知識もない時だ。そのワイエス展に私は行っていないので、残念なことに「海からの風」の原画に接することはなかった。未だにその機会は訪れないし、これからもそんな機会はないのかもしれない。 息子達が私の出版のお祝いに送ってくれたワイエス画集「クリスティーナの世界」を開いて久しぶりにこの絵と再会した。込み上げてくる感動は以前のものと変わっていない。何とも美しい絵だ。貴重な画集を本棚にしまいながら、好きなときに取り出してこの絵と接することができる喜びに浸っている。

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「ラ・フランス頌」から
「紳士のつぶやき」