さらに言葉を続けようとした時、受付の仕事で話が中断されたが、しばらくして理恵がまた口を開いた。「さっきの話だけど、それで原田君はなんて言ったの?」「うーん、いいよ、って言ったかしら。とにかく、マジック渡して、返してもらって、それじゃあって言って会場に入っていったわ。それがどうかしたの?」「ううん、なんでもないの。ただ、何を話したのかな、と思って。」「そう。」理恵は自分と俊彦のことを気にしているのだと分かったが、依子にはそれが疎ましかった。私だって分かってるわ、子供じゃないんですもの。
だが依子は分かっていなかった。夫が僕のことは心配しなくていいと言うときは、必ず早く帰宅して依子の帰りを待っていることを。だからこそ理恵が、俊彦とのことを心配しているのだということを。
理恵がそのことを知ったのは、まったくの偶然だった。依子との待ち合わせに遅れそうになり、間違って家にかけてしまった時、依子の夫が電話に出て理恵は驚いた。帰りが遅くなるから自分のことは心配しなくていい、と夫はいつも言うのだと依子から聞かされていたからだ。理恵がそのことに触れると、依子から連絡があったときに助けになれるよう、早めに帰宅するようにしていると夫は言った。同時に、依子には言わないでくれとも言った。依子がそれを知ったら子供扱いされているように感じるだろうから、と。たしかに、ご主人がいつもそうしていると知ったら、依子は怒ってへそを曲げるに違いない。理恵は了解して電話を切り、依子に会ったときも何も言わなかった。
だがそれ以来、理恵は依子が夫の愚痴を言うたびに、あなたは分かっていないだけなのよ、と諭すようになった。実際、依子は分かっていないのだ。自分が夫からどんなに愛されているかを。夫だけではない。自分も含め、周りの人間がどんなに依子を慕い、依子の笑顔を見たいと願っているのかを。 |