「あの時はさすがに焦ったわね。すぐに病院担ぎ込んでさ。あとで父さんにこっぴどくやられたな。父さんにはよくお仕置きされたけど、あの時はひどかった。梁にぶら下げられて、青竹でぶん殴られて。殺されるかと思ったわよ」
「俺が親父さんでもそうするね」
「そんなこんなで、あたしのほうが根負けしちゃってさ。ガキ連中の間では怖いものなしだったけど、明夫だけは特別の存在になった」
「見上げた野郎だ。粘りに粘って村一番の女ガキ大将を口説き落としたか」
「それからは、いつも金魚のフンみたいにあたしにくっついて歩いて」
「お姫様と家来ってとこか。といっても、京子のほうが押され気味だったんじゃねえか?」
「正直言って、少し暑苦しかったな。だけど追い払える相手じゃないのは分かったし、好きなようにさせるしかなかったのよ」
謙司はクックッと笑った。
「つくづくあっぱれな奴だぜ。だが他のワンパク連中は面白くなかっただろうな。明夫の奴、いじめられたんじゃねえか?」
「あたしがそうはさせなかったわよ」
「ハッハッハ、そうだったな」
「でも、一度だけ逆のこともあったな」
「ほう」
「ヤマヅチに襲われそうになったところを助けられたの」
「なに」
浮かれたように楽しかった謙司の心を、氷のつぶてが貫いた。
クマの頭の上にいた鷲が、いきなり激しい羽音を立てて飛び去って行く。
「あたしと明夫が十才の時の夏休みのことだったわ」
「同い年か」
京子は、草原の彼方の山並みへ視線をやっていた。
「あたしんちの裏の山の奥に沢があってね、明夫と二人で遊んでたら、いきなり林の中からヤマヅチが出て来て」
謙司は、身動きもせずに京子を見詰めている。
「あたし、怖くて腰抜かしちゃって」
彼は、昨日京子が初めてヤマヅチの話をした時、何故この事に触れなかったのか不審な気がした。自分が襲われかけた直接的な体験があるなら、真っ先にそれを話してもよさそうなものだ。
「さっき言ったでしょ、毒気が物凄いって。謙司は実際に見たことないから分からないのよ」
「それで、明夫がそのヤマヅチを撃退したのか」
「そうよ」
京子が恋い焦がれる男を思い出したような表情になったので、謙司はムッとした。 |