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1968年東京生まれ。
上智大学外国語学部ロシア語学科除籍。
87年、18歳の時に、「川べりの道」で文學界新人賞を受賞。92年、「駆ける少年」で泉鏡花賞を受賞。その他の著書は「少年たちの終わらない夜」「帰れぬ人々」「葉桜の日」「大統領のクリスマス・ツリー」「君はこの国を好きか」「私の話」など多数。3月には待望の新刊「ウェルカム・ホーム」が新潮社より刊行予定。その他、6月には演劇のプロデュース公演も予定している。
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取材・文/橘かれん
撮影/石原敦志
第1回 第2回 第3回 第4回
第一回
 ゼロからひとつの世界を作り上げる作家の仕事。
ゼロが1になる瞬間ともいえる、一文字目を書き付けるその時に至るまで、
プロは何を考え、何をしているのか。プロの創作の秘密に迫るインタビュー、
今回は「川べりの道」でデビューして以来、読む者の心に強く響く、
質の高い小説を発表し続ける作家・鷺沢萠さんにご登場いただいた。
第一回では“小説を書くまで”についてうかがう。

 鷺沢萠さんの作家デビューは早い。1987年、なんと18歳という若さで「文學界」の新人賞を受賞。デビュー作「川べりの道」執筆当時は高校3年生。受賞の報せは大学の入学式の直前に聞いたという。

鷺沢: 
非常に「職業」ということに敏感な高校生でしたね。だけどそこは所詮高校生ですから、ガキなわけです。どれくらいガキだったかというと、大学に入れば、それなりの「職業」ってセットになって付いてくるものだと思っていた。大学は推薦で入ったんですが、ウチの大学(上智大学)は推薦で全国から集めた高校生相手に、もう一回試験やりやがるんです(笑)。踏絵だね、キリスト教だけに。って、それは冗談ですけど、つまり、学校の中で推薦を取れても、大学側が踏絵みたいな試験をきっちりと用意してて、それをクリアしないと「合格」ということにはならない。やべえよなあ。これで落ちてたら、ボクちゃんどうやって食べていくのかなあ、と。デビュー作を雑誌の新人賞に送ったのは、というか送りつけたのは(笑)、タイミングとしては試験を受けた直後くらいでした。保険、というとことばは悪いですけど、そういう感覚は確実にあったと思いますよね、今から思えば。私にとっては「どっちか」が「合格」しないとヤバいわけ。


 そんな鷺沢さんは、高校3年の秋に、大学から合格の通知をもらう。

鷺沢: 
オッケー! ゲット! と思いました。ガキですねえ。大学入学したくらいのことで、人生のキップもらった、みたいに思ってた。で、そっちのほうのキップをゲットしてたもんだから、雑誌の新人賞に小説送りつけたことをすっかり忘れるわけです。そのころ、週刊文春という雑誌で糸井重里さんがコピー塾っていうのをやってらして、よくネタを送ってたんですよ。親に「ブンゲイシュンジュウから電話があった」って言われたとき、てっきりそのコピー塾のほうでなんかもらったんだあ〜、と思ってました。電話で「最終候補に残ってます」って言われたときも、なんか、実感なかったですね。ふつうはその「最終候補に残った」という段階でなにがしかの感慨をおぼえるらしいんですけど、なんせガキですから。え? 候補なんでしょ? 受賞じゃないんでしょ? なんでわざわざ電話くれんの? って、純粋に不思議がってた気がする。


 ところが、これが受賞してしまう。デビュー作「川べりの道」は40枚ほどの短編で、18歳の女子高生が書いたとは思えない渋い小説である。女性、しかも少女と呼んでも差し支えのない年齢の女性が男性を主人公にしたことも、話題となった。

鷺沢:
いぶし銀なの(笑)。18歳でいぶし銀なの。ラッキーだよね。自分では意識してなかったけど、18歳でいぶし銀、というあたりが、やっぱり受賞のヒミツのカギを握っている、とは思う、客観的に(笑)。


 18歳の少女は、なぜ「いぶし銀」のような小説を書きたい、と考えたのだろうか。

鷺沢: 
正直いって、自分でもホントに判らない。それがいぶし銀、という評価を得るだろう、ということも判ってなかったし。ただね、私、家の事情があって、80年代のバブリーな日本でかなり経済的に苦しい高校生活を送っていたんですよ。経済的に苦しい、っていうのは、当時の日本ではたいへんに恥ずかしいことだったんですね。恥ずかしいから、言えないの。私、けっこう苦しいです、っていうことを。そういうふうに、「言えない」ことが、溜まって溜まって、そりゃあもう悪臭を放つくらいに溜まりまくっていてね。身体の中で。辛いわけですよ、身体の中に悪臭を放つような何かを抱えて暮らしていくのは。それを、「書く」という形で発散させてやった、という部分はあったでしょうね。


 18歳の少女が「身体の中に溜まった何か」を「書く」という形で発散させることを思いついたのはなぜか。

鷺沢:
ビンボーだからね。ミもフタもない言い方だけど。おカネが、たくさんじゃなくてもいいから、それなりのおカネがあれば、たとえば音楽に向かう、という方向性もあったと思うんですよ。だけど、音楽とかってやっぱりおカネかかるじゃない? ビンボーな場合、自己表現の方法に「書く」という手段を選ぶのは、もう必然だと私は思う。だって廉価だもの、道具が。そのころはたいていの人が手書きで書いてたし。ありとあらゆるものをね。私も、コンビニで売ってるような原稿用紙と、百円のシャーペンで書いたよ、デビュー作。


 その「百円のシャーペン」を、鷺沢さんは今でも大事にしているという。

鷺沢:
私にとっては「戦友」なのね、そのシャーペンが(笑)。さすがに今は私も手では書いてないけど、一生大事にするだろうね。棺桶に入れてくれ、って遺言残しとこう。わびしい話だよね、棺桶にシャーペンを、って。それどうなんだろう、って言ってから自分でしみじみと思いました。


 次回は、コンビニで売っている原稿用紙と、百円のシャープペンシルで最初の闘いに臨んだ18歳の「それから」を訊く。
鷺沢さんの「戦友」である「百円のシャーペン」と創作ノート
第1回 第2回 第3回 第4回
第二回
 ゼロからひとつの世界を作り上げる作家の仕事。
ゼロが1になる瞬間ともいえる、一文字目を書き付けるその時に至るまで、
プロは何を考え、何をしているのか。プロの創作の秘密に迫るインタビュー、
今回は「川べりの道」でデビューして以来、読む者の心に強く響く、
質の高い小説を発表し続ける作家・鷺沢萠さんにご登場いただいた。
第二回では、“転機”についてうかがう。
 いぶし銀のような小説でデビューを果たした鷺沢萠さん。だが、その後の作品は少し傾向が違ってくる。その筆頭は「少年たちの終わらない夜」などの作品だろう。バブルの時代を背景に、青春群像を描いたこの小説はベストセラーとなった。 

鷺沢: 
物理的には、というか、生物学的に18歳ですからね。いぶし銀ばっかりやってられないわけですよ。で、毛色の違うものも書きはじめたら、なにやらたいへんに多忙になった。でもガキなりに超ラッキー、とは思ってた。こっちのキップもゲット、と思ってしまって、来る仕事ぜんぶ食いつくから、大学での勉強がおろそかになった。ウチのガッコウは厳しいんですよ、特に私の在籍していた学部は。二足のわらじは履けないの。しかし無謀なことに、私は三足のわらじを履こうとした(笑)。


 鷺沢さんは21歳で結婚を経験している。

鷺沢: 
それこそ物理的に無理だよね。いや、やれる人もいるんだろうとは思うんだけど。仕事やって勉強やって主婦やって、って、そりゃ無理だ! と、あのころの自分にツッコミを入れてやりたい。まずはガッコウに行かなくなった。で、ずるずると学費だけ払ってはいたんだけど、行かないんだからムダだよなあ、と思って。それでまず、大学をやめました。大学やめたのは後悔してますね。「やめる」という行為には麻薬のような依存性があるのかも(笑)。しばらくして、結婚のほうもやめました。


 結婚と離婚を経験したことが、書くことに与えた影響は?

鷺沢:
それは答えが難しいかな。いや、もちろん得がたい経験をした、とは思ってますけどね(笑)。ただ、人生の中に丹念に仕組まれている苦難は、手を替え品を替え、という感じで訪れるでしょう? 離婚はそれなりにしょっぱい思い出だったりはするけど、それ以上の地獄も何回も見てきてるからさ。ただ、とにかく書いてたよね、あのころは私。うん。働き者だったな、二十代前半の私。あんまり難しいこと考えず、なんか、マシーンのように書いてた。


 マシーンのように書いていた鷺沢さんに、転機が訪れる。

鷺沢:
23歳で離婚して、24歳で韓国に留学してるんです。留学中に「ケナリも花、サクラも花」と「大統領のクリスマス・ツリー」を書いて、そのあと日本に帰ってきて、あ、書けない、ということに突然気付いた。スランプ、っていうのとは違う気がする。なんかね、スランプなどというライトなことばであの泥沼を表現してほしくない。って、なんでイバってんでしょうね、私(笑)。


 書けない時期は2年ほど続いた。

鷺沢:
編集さんから電話かかってくるじゃない?もう、電話とるのもイヤなの。電話とる気力がないの。電話とる気力がない、って、それ凄いでしょ(笑)。でもホントにそういう感じだったなあ……。で、何をしているかというと一日中ゲームセンターにいるのね。それか雀荘。人間のクズでしょう、それは。クズの自覚があるからよけい辛くってねえ……。だって、どう考えても私という人間に必然性がない。レゾンデートルがないの(笑)。早く死ね、こんなヤツ、と自分に毒づきながら麻雀してました。


 そこから脱け出せたきっかけは何だったのだろう。

鷺沢:
神の采配(笑)。嘘だけど。なんていうか、やっぱり自分で認められない自分をやっていくのに疲れ果てたんでしょうねえ。「君はこの国を好きか」を書きあげたあたりで、よし、脱出成功、とは思ったかも知れない。


 そのころから、鷺沢さんの作風はまた変わってくる。

鷺沢:
もういいトシになってるからさ。アタマ使わず書いてんじゃねーよ、と思いはじめたんですね。あるものはみな使え、ちゃんと難しいことも考えろ、と。で、意識的に変えたよね。それは作風を、というより、たぶん生き方を。


 意識的に「生き方」を変えたと語る鷺沢さん。次回では「変身後」の彼女について訊く。
第1回 第2回 第3回 第4回
第三回
 ゼロからひとつの世界を作り上げる作家の仕事。
ゼロが1になる瞬間ともいえる、一文字目を書き付けるその時に至るまで、
プロは何を考え、何をしているのか。
プロの創作の秘密に迫るインタビュー、
今回は「川べりの道」でデビューして以来、読む者の心に強く響く、
質の高い小説を発表し続ける作家・鷺沢萠さんにご登場いただいた。
第三回では、“書きたいこと”についてうかがう。
 意識的に生き方を変えた、と語る鷺沢さん。年齢的には30歳くらいのころのことだったという。

鷺沢: 
20代まではさ、なんていうの「オンナノコ」みたいな存在でいられるけど、30歳って、もう圧倒的に、弁解できないほどに「オトナ」の年齢じゃないですか。そのときに、自分の考える「オトナ」では全然ない自分を発見して驚愕いたしました(笑)。やべえよ、30なのに「オトナ」じゃないよ、私。って、そういう焦りがあった。で、「オトナ」になろうとしたわけですね。遅えよ、って話ですが(笑)。オトナになろう計画、そのあたりから実行。


 そうした「計画」が、作品にどのような影響を与えたのだろう。

鷺沢: 
なんていうか、「残る」ものを作ろう、って思いはじめた。20代のころは、あんまり難しいこと考えずにマシーンのように書いていた、って言ったじゃないですか。そのマシーン的なことをやめよう、と思ったね、まず。人はマシーンじゃないからさ。脳味噌あるんだからさ。脳を使って書きましょう、と。で、「君はこの国を好きか」のときに脱出感があったお話はしましたけど、私としては、「さいはての二人」という作品を書いたときに、あ、ちょっとオトナになれたかな?という達成感があったんです。


「さいはての二人」は、在日韓国人の中年男と、日米ハーフの若い女性の不思議な恋ものがたりである。

鷺沢:
恋ものがたりなんだけど、ただ愛だ恋だと言ってるだけで終わる作品にしたくなかった。男性のほうは被爆二世なんですね。いや、めちゃめちゃ調べたよね、原爆のこと。途中で気分悪くなったりしてたもん。フツーに「おええ」となっていた。そういうこと、それまで知らなかった自分というのにも結構ビックリしたし。


「さいはての二人」の中では、広島で使われた原爆と長崎で使われた原爆が違う種類のものだった、という話が紹介される。

鷺沢:
違う爆弾2種類落とす必要あったのか、つう話だよね。ひどいよね。実験じゃねーか! と。あと、あれ書いてるあいだ、ネットで原爆のことざくざく調べてたんだけど、すごい正直なこと言ってる白人の人がいてさ。「ドイツではなく日本に原爆が落ちたのは、やはり人種的な親和感と無縁ではないだろう」って。ああ、そうなのね、と。やっぱりそうだったのね、前から薄々とは考えていたけどさ、みたいな。そういうことに、すっごく敏感なんだよね、私。もう病的に敏感。単語に集約すると「人権」ってことになると思うけど。


 エッセイなどでも、そうしたことが語られはじめる。特に「ナグネ・旅の途中」や「この惑星のうえを歩こう」などのエッセイ集の中で、彼女独特の人権に対する考え方が披露される。

鷺沢:
やっぱりかなり若いうちから日韓問題に近しいところにいたのが大きいと思うんですけど、ありとあらゆる「差別」に関して興味を持つんですよね。差別感が、人間の中でどのように生じるか、というプロセスに関しても、とっても詳しく知ってるの。知り抜いてるの。できれば知りたくなかったんだけどさ(笑)。で、この国には「言わなきゃいいや」、「見なきゃいいや」という伝統芸があるんですね。いや、言ってくれ、見てくれ、と。直視するところからはじめないと、なくせないからさ。直視しない人たちにとっては差別って「ないもの」だから。いやいやいやいや、あるんです。あるからなくさないといけないんです。って、そこからはじめないといけないのかよー、という徒労感はある。でもね、徒労感とか、苦役のようなものを乗り越えていく仕事には、「やり甲斐」というとんでもなく嬉しいオプションがついてくるんですよ。それはお金には換算できない、と私は思ってるんですね。やり甲斐のない仕事もするけどさ、生きてかなきゃなんないから。でも、自分で自分を誇れるような種類の仕事は、ねばっこく続けていきたい。私、こう見えて粘着質なのね。この粘着性もさ、使わないともったいないから。


 鷺沢萠さんの「やり甲斐」については、次回で詳しく聞こう。
第1回 第2回 第3回 第4回
第四回
ゼロからひとつの世界を作り上げる作家の仕事。
ゼロが1になる瞬間ともいえる、一文字目を書き付けるその瞬間に至るまで、
プロは何を考え、何をしているのか。
プロの創作の秘密に迫るインタビュー、
今回は「川べりの道」でデビューして以来、読む者の心に強く響く、
質の高い小説を発表し続ける作家・鷺沢萠さんにご登場いただいた。
第四回では、“書くという仕事”についてうかがう。

 自らを「粘着質」と表現する鷺沢萠さん。そんな鷺沢さんに、仕事に対する取り組み方を訊いた。


鷺沢: 
一緒にやるヒト、かわいそうだよね、とは思う。同情するよ、編集者に。ねちっこいからさ、私。ただ、上がりだけは早いのね。連載ものなんか、「ひと月間違えてないですか?」って言われたことある。作家がふんぞり返って、書けもしない原稿を「書く」って言っときながら〆切り間に合わなくて、編集者が徹夜する、とか、そういう図柄が大っ嫌いなのね。〆切りに間に合わない、っていう時点で、それは「プロの仕事」じゃない、と思うからさ。書けないものは書けないと言え、つう話じゃん。書ける人、山ほどいるんだから。それで原稿が遅い人のほうが尊重されちゃう、みたいな、今の出版界に蔓延してる雰囲気は改善していかないと、いつかとんでもないことになるよね。だから私、今では「できないな」と思う仕事は受けないよ。昔はダボハゼみたいに何でもかんでもに食いついてたけど。物理的な意味で「できないな」っていう場合もあるけど、自分の気持ちとして「できないな」っていう場合もある。たとえば新人賞とかの審査員。あんなに時間食って、面白くない可能性も非常に高い原稿を読まなきゃならなくて、その上、ゼッタイ誰かの恨みを買うわけじゃん。やることに何のメリットがあろうか?と(笑)。


 そんな鷺沢さんにとって、仕事とは何か。

鷺沢: 
勉強ですね。どんなことでも勉強になる。楽しいよ、私、勉強好きだから。好きなことをやってるわけじゃない? そりゃ、「書けなくて苦しい」っていうときもあるけど、基本的に書くことが好きな人が書くべきだと思ってるのね。だから、「書けない」って〆切り守らない人は、実は書くことをそんなに好きじゃないんじゃないか、と(笑)。こないだ、ウイスキーに関するエッセイ依頼されて、取材で蒸留所に行かせてもらったんです。ウイスキーってどうやって造るか知ってる? すごい手間かかるの。でも、手間がかかるから美味しいんだよね。会社の名前は出しませんが、その蒸留所で会った方々、つまりウイスキー造りに関わってらっしゃる方々が、全員見事に「プロ」なのね。勉強になったし、感動もした。品質のよいものを作るためには、手間がかかるものなのだ、と。でも、そこにあるのは、〆切り守らない作家の原稿を夜を徹して待つ、という種類の「手間」ではないんですよ。もっと健全な形での「手間」なの。で、全然イバってないの。「我々はウイスキーを作っているだけだ」って。出版関係の人って、自分が何かエラいことやってる、っていう勘違いしてる人、多いと思うんだよね。「我々は本を作っているだけだ」という自覚は必要だと思います。現業労働であることを知ろう、と。職人なんだからさ。


 鷺沢さんの口からは、たいへん頻繁にこのことばが出る。職人。これは彼女の仕事に対するスタンスをよくあらわしている。

鷺沢:
腕のいい職人が減って、仕上がりのいいものを見る機会も減ってさ、だから、「いいもの」を見極める力が世間全体から失われている、という気がします。テレビとか特に。そういえばテレビ関係の人も、勘違いしてる人、多いよね。あんた誰? 何様? お代官様? それともお殿様? みたいな(笑)。私、実は一回テレビ関係者の男性を殴りかけたことがあります。ははは。そういえばこないだ、偶然「犬神家の一族」観たの。面白いのよー! 小さいときに一度見たきりだったけど、大人になって見直したら、小さいときには分かんなかったメッセージ性が見えてきてさー! すげーや、と思った。あのころはちゃんと作ってたんだよね。まあ映画に関していろいろ言及してると、ちょっと人間関係的にマズいので、話をテレビドラマに戻しますが、私はテレビドラマに確かな力があった時代を知ってるから、今のドラマ、見れないの。二時間ドラマとかさ、どあたま15分で誰が犯人か分かる、つうのよ。もっとちゃんと作ろうよ、とは思う。でも、それでまかり通っちゃってるのは、視聴者つまり観客、小説でいうなら読者だよね、全体的にオーディエンスの側が「何が面白いか」っていうのが分からなくなってきてるのかも知れないよね。でも、私が「面白い」って思うものが、大多数の賛成を得られるとは考えてないからさ、そういう流れが「いいこと」なのか「悪いこと」なのかを判断する権利は私にはない、と思ってるのね。私の価値観が絶対だとは言えないからさ。そういうフェアネスは、いつでも持ってたい。そういうフェアネスがね、それだけが、たぶん私の強味だと思う。