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 2005年6月 執筆前夜
保坂 和志 さんインタビュー (全4回)
取材・文/小山田桐子 撮影/石原敦志
第1回

 ゼロからひとつの世界を作り上げるクリエイターの仕事。ゼロが1になる瞬間ともいえる、一文字目を書き付けるその時に至るまで、プロは何を考え、何をしているのか。プロの創作の秘密に迫るインタビュー、今回は、「プレーンソング」でデビューして以来、「この人の閾」や「カンバセイション・ピース」など、小説と共に過ごす時間の一瞬一瞬が愛おしい傑作を生み出してきた作家、保坂和志さんにご登場いただいた。第1回では6月に刊行される新刊『小説の自由』についてうかがう。


「読んだり書いたりする以上に、小説について考えることに時間を使っている」という保坂さんの新刊『小説の自由』は、小説の書き方、読み方について綴られた一冊だが、小説とはこういうものであると限定するような評論ではなく、小説の“意味”を重視するような読み方や書き方などから私たちを解き放ってくれる、刺激的な小説論である。

保坂:
 今、小説について何かを語ったり、書いたりするのは、評論家の役割になってしまっていると思うんですが、評論家は小説の一部分しか読んでないんですよ。自分に都合のいいような部分しか読んでいない。ストーリーやテーマだけを読むとか、あるいは、その小説が現代とどういう風にリンクしているとか、評論する人によって読み方は違うんだけど、どれも、結局は小説の部分しか読んでいないんです。問題にされているのはその小説の“意味”なんですよね。そして、そういう小説を読んで意味を考えるということを、小学校の国語の授業なんかでも教えている。この小説のテーマをいいなさいとか、これは何を意味していますか、っていうことしか教えてきていないんです。小説っていうのはまったくそういうものではないんですよ。僕は特にカフカが好きなんだけど、例えば、カフカはもう何十年間も現代社会の不安を描いているみたいに言われているんですよね。でも、そんなことは、小説の中ですごいちっちゃい問題なんです。ただカフカの小説がものすごい広がりを持っているから、その広がりの一部分がその後の社会とリンクしたように見えてるだけなんです。みんな、その部分について言及することで、カフカを言えたような気になってるんだけど、全然そういうことではないんですよね。カフカについてだけでなく、よく、「あの小説は現代を予見していた」とか言うことがありますけど、そういったことは占い師の仕事であって、小説家の仕事ではない(笑)。


 保坂さんの言うように、現代社会との関わりがどうであるとか、これは何の隠喩なのか、などといったことを考えずにカフカを読めば、そのユーモアなど作品の純粋な面白さに改めて気づかされるだろう。

保坂:
 難しい小説と思わずに読んでいると、カフカって結構よく笑っちゃうんだよね。例えば、一番有名な『変身』で、主人公が朝起きたら、虫になっているでしょう……まあ、実は原文では虫とは書いていないんだけどね、けがれた小動物と書いてあるだけで。ただ、背中に堅い甲羅があって、細かい足がいくつもあるっていうことが描写されているので、大体みんな、足がたくさんある甲虫類を想像してるんだけど、実際の甲虫はそんなに足がないんだよね。まあ、ムカデだと足は多いけど、にょろにょろ細長いわけだから当てはまらないし。だから、ほんとは別に虫ともなんとも書いてないんだけど、まあ、虫ってことにして話を戻すと、主人公が朝起きて虫になっちゃってて、まず彼が考えていることは、「しまった、目覚まし時計が鳴ったはずなのに、寝坊してしまった。早く出張にいかなければ遅れちゃう」ってことなんだよね。虫になったことは心配してない。それは変なんだよね(笑)。だから、評論家や学校の授業でカフカの『変身』を読む時に、虫に変身するということは、どういう意味があるのかって必ず考えるけど、そうじゃないんだよね。虫の意味について話すとき、それは『変身』を全員が読み通したものであることを前提に考えているわけですよ。でも、作者は必ず、『この小説は最後までみんなに読まれるのだろうか』と思いながら書いている。虫になったことっていう状況をひとつ提示して、それに続く出来事を描写して、読者を退屈させずに読み続けさせるところに、この小説の何か力があるんです。


 保坂さんは小説も音楽と同じように考えるべきではないか、と言う。

保坂:
 聴いている人を退屈させないための工夫っていうのが音楽の中にいろいろあるわけですよ。メロディだけじゃなくて、伴奏と主旋律とのいろんな組み合わせとか展開の仕方によって聴いている人を飽きさせないようにするわけだよね。小説もまずそういうものだと思わなきゃいけないと思うんです。読者は、つまらないと思ったら、最後まで読まないですから。特に僕はつまらないと思うと、もう読み終えるというところまで読んでいても、読み止めちゃうんだよね。だから、小説を考える時に、まずどういう風に読者の関心を引き出すか、っていうことが圧倒的に一番なんだよね。読者が読む時間というのをまず考えないといけない。小説を書く人にとっても、読者にとっても一番大事なのは、“読み終わった後”ではなく“読んでる間”なんだから。なのに評論となると、読む時間っていうのがまったく忘れられてるんだよね。


 本は読むものであり、読み終え、分析を待っているものではない。小説で大事なことは、近い将来に起こることを予言することでも、作家が言いたいことを伝えることでもなく、いかに読み手がその小説を最初から最後まで楽しむことができるか、なのだ。それはごく当たり前のことのようでありながら、今、小説を考え、語るうえで、すっぽりと抜け落ちていることかもしれない。

保坂:
 “読む”っていうのは動詞なんですけど、“意味”っていうのは名詞なんだよね。人間っていうのは動詞より名詞の方が考えやすい。例えば、どこかに行くっていう時に、行くという行為自体よりも、目的地っていうことの方が考えやすいし、大事にされるわけ。でも、小説っていうのは“行く”という動詞なんだよね。意味っていうのは、“目的地”であり、名詞化されたものなんですよ。音楽というのは本当に動詞の塊ですが、本当は小説もそうなんです。そういうことが本当に本当に分かられていない。今の小説評論は、小説がどんどん名詞的なものになっていってしまうような読み方をしている。でも、小説家にとっても読む人にとっても小説って動詞なんですよね。だから、動詞として小説を捉えてもらえるようにする、というのが『小説の自由』にある一番の気持ちなんです。


 次回では、さらに『小説の自由』でも語られている保坂さんの考える小説についてうかがう。

第2回

 第2回では引き続き『小説の自由』で語られている保坂さんの考えてきた小説についてうかがう。


 『小説の自由』を読んでいて強く感じるのは、保坂さんが小説というものを信じ、真剣に心から大切にしている、ということだ。小説の時代は終わっただとか、今の小説には力ない、というネガティブな声がよく聞かれる現代において、その保坂さんの姿勢は、図書館に通い詰め、無我夢中で本の世界に没頭した頃の、小説に対する純粋な気持ちを思い出させてくれる。

保坂:
 自分が小説家であるということは、トルストイとかドフトエフスキーとかダンテとか、そういういう人たちの末裔なんですよ。そうした先人たちが小説を確立してくれたから、僕が今小説を書けているのであって、小説家が「小説が力がない」だとか、「たかだか小説は」なんて言ったら、彼らに悪いんだよ。それと同時に、自分が最初に小説を書きたいと思った時には、「たかだか小説だけど、書きたい」とは思って書き始めるわけではないじゃない。映画だって写真だって野球だって全部そうなんだけど、それの一番いい部分に憧れるからやってるわけで、それを自分が何年かやっただけで、その限界が分かったような顔をしているのはおかしなことだよね。それは完全に自分の中の理解なだけであって、仮にその人には何にもできないとしても、 “小説”とか“映画”も何もできないと決めつけて、自分の問題と一緒にするなっていうことですよ。


 自分の問題とマスコミなどが問題としていることを一緒にしてしまうということは、気づかないうちに多くの人がしていることかもしれない。社会的な視点も大事ではあるが、それが全てになってしまっては、見えるものが限られてしまう。

保坂:
 社会の視点からしか小説を書いていないのであれば、社会を超えられるわけがないんですよ。物事に対してたったひとつのはっきりした理由があるようなワイドショーみたいな書き方しかできなくなる。たとえば、女の子を監禁した札幌の男性の事件があったけど、「美人なお母さんにちやほやされて育って、そのお母さんが亡くなったから」とワイドショーは説明する。でも、そんな奴は世の中に、たくさんいるわけで、なぜ、本当に彼が事件を起こしたかは分からないんだよね。そういう事件に至るファクターなんかいっぱいあるっていうことを普段考えることがないから、そういうすごい単純なつなぎ方だけが起きてしまう。そういう単純なつなぎ方で小説を書いてたら、結局そういうつなぎ方のものしか生まれてこないわけですよ。でも、ワイドショー自体はもともと小説を使ってるんだよね。ワイドショーが使う物事の因果関係の作り方というのはそもそも小説のもので、小説を低俗化させて、分かりやすくしたものがワイドショーなわけですよ。ところが小説自体がのワイドショー化してきて、ほんとに一番低俗というか一番分かりやすいというか、そういうものだけが流通してしまっているというような感じを受けますね。


 確かに、近年我々は、ワイドショー的なセンセーショナルなようで紋切り型なものに絶えず触れ続けている。

保坂:
 いや、センセーショナルなものっていうのは紋切り型なんですよ。その場でショックを与えられるというものは紋切り型で、実はもう知っているものなんですね。例えば、以前、古武術の指導員に試しに技をかけてもらったことがあるんですよ。その人の腕を握るように言われて、気が付いたら、僕の後ろに置かれていた椅子にぺたっと座っていた。ただそれだけなの。だから、最初はどうってことない、って思うんだけど、でもそれはすごいことなんだよね。僕がその人の手に接触することによって、二人をあわせた重心を僕の体の外に作り出して、僕のバランスを崩したわけだから。でも、やっぱり初めて経験したことなんで、全然センセーショナルだとは感じなかった。椅子に座っているだけだし(笑)、すごさが分からない。これ、すごいなあと気づくまでに、2時間ぐらいかかったんじゃないかな。とにかく、想定外になると、ほんとにすごさって分からないし、すぐには驚きにもならないんだよね。


 人は自分の中にすでにある回路を使う。それが楽だからだ。しかし、その回路は万人に分かりやすくはあるが、それを使っている限り、枠からはみ出ることのないワイドショー的な捉え方しかできないだろう。自分の目で物事を見る上で、小説という存在は保坂さんにとって大きいという。

保坂:
 何か考えたり、見たりするときに、常に小説ではどうかみたいなフィルターで見ているんですね。漫画を読んでいたりしても、これは小説ではできないとか、これは小説とは全然違うところだとか、こういう感じっていうのは小説に入ってきつつあるなとか、そういうことを考える。だから、改めて「あ、これから小説を考えよう」ということではなく、何かがあると常に小説のことも一緒に考えているんです。現実ってあまりにたくさんの要素からなりたっているから、やっぱりまるまるそのままを見ることはできない。でも、音楽だったり、絵だったりっていう、その人がいつももっている手段と一緒に考えることで、人よりも現実が見えるようになるんだよね。それが僕には小説なんです。


 次回では、保坂さんの小説へのアプローチ法についてうかがう。

第3回

 第3回では保坂さんの小説への取り組みについてうかがう。


 糸井重里さんとの対談の中で保坂さんは『その人たちの現場に、読んでいる人も居あわせて、たのしいような気持ちに、なってもらいたいのが、ぼくの小説にある、まず最初の気持ちである』と述べているが、保坂さんの書く小説はその空気の中にいるのが心地よく、いつまでも読み続けていたいような気持ちにさせる。懐かしい匂いや音楽さえ感じられるような、その場所にとどまっていたい、と思う。小説を書いている間、保坂さんの中で、本当にひとつの音楽が鳴り続けているのだ、というが、その音楽が鳴り始めるような瞬間というのはどうしたら訪れるものなのだろうか。

保坂:
 やっぱり、待つだけじゃ来なくて、さあ始めよう、さあ始めようとしばらく思っていないとだめなんですよ。それで、まあ、細かい設定などはしないですけど、最初に考えたこんな感じかな、と思ったものを書いて見る。たとえば『季節の記憶』で言えば、主人公は父子家庭で、場所は鎌倉の稲村ガ崎の辺りでといったことぐらいまでを考えて、書き出してみるわけです。それで、最初の二、三枚書いて、なんか違うなと思ったら、そこで一度書くのをやめて、また考える。近所にお兄ちゃんとお姉ちゃんの二人組がいる方がいいなとか、あ、年の離れた兄妹にした方がいいなとか考えながら、それでまた書き出すんですね。それで、何度目かになんかこのまんまいけるな、と思う時があるんですよ。それは自分でも分かんない。何がそれまでと違うのか、それはほんと説明できないんですよ。そういう、ほんとに説明できないところがやっぱり一番大事な部分なんですよね。昔はそういった気持ちをみんなが了解してたから、徒弟制というものがあった。いろいろ家事とか手伝ったりさせられながら、とにかく師匠がどんな風にやってるかを間近で見て、自分のものにしていく。自分の力で観察できる人だけが、その跡を継げたというか、その世界に入れたわけですよね。今は、何でもマニュアルで学ぼうとか教えようってことをしているけど、マニュアル化しちゃうと、実は大事なことを何にも伝えられていないんですよ。小説にしても、パソコンとか原稿用紙の使い方なんていう部分はマニュアルで伝えられるけど、どういうタイミングで小説がはじまっていくか、といったことは伝えられないし、分からないですよね。


 書き詰まってしまった場合には、保坂さんはとにかく前に戻って読み直してみるのだという。

保坂:
 自分が書いたものをとりあえず読み直してみる。詰まるということは、やっぱりどこかで道が間違ってるので、戻ってもう一度書いてみる。で、あんまりダメだったら、僕は最初から書き直します。そうしたことは年中やってますね。小説家になりたい人たちって、自分が一度書いたものを大事にしてしまって、すっぱり切り捨てることができないんじゃないかという気がします。特にパソコンを使って書いていると、何度でも直せるでしょう。一部をいじっているうちに何とかなると思っちゃうんだけど、センテンス単位の問題じゃないんだよね。せめて段落単位で書き直す。それで、書き直す時には、前に書いたものはすっぱり切り捨てるってことが必要なんじゃないかと思いますね。


 また、小説を書くうえで、部分部分をきちんと書くことが重要だと保坂さんは言う。

保坂:
 たとえば、カフカだって、全体を通して言おうとしてることなんてないわけですよ。ただ、瞬間瞬間を丁寧に描いて、その世界を綿密に創り上げているだけなんだよね。だから、単純に小説の筋を追っていけば、カフカの言いたいことが分かるなんていうのは、カフカ自身がそうやって書いてないわけだから、おかしなことですよね。大体、朝起きて、夜寝るまでの一日をテーマでは言えないわけですよ。仕事の部分もあれば、普段の生活の部分、ずっと何年も続けているような部分とか、一日の中にはいろんな部分があるわけでしょう。小説もそういうものなんだよね。特に優れた小説ほどそうなっていく。だから、「この小説は何を言おうとしているのか」っていうことばっかり考える人は、夜寝る前に、「自分が今日は一日何を言おうとしたのかな」って考えてみればいいんですよ。そうすれば、そんなものないってことがよく分かるよ(笑)。だから、部分部分をきちんと書いていくと、全体ができるんだよね。「木を見て森を見ず」じゃないんだよ。全体を見ようと思って書いていくと、細部が甘くなってしまう。本当に全体なんかどうでもいいくらい、とりあえず、今書いている細部だけをきちんきちんと書いていける人の方が全体ができあがるんですよね。


 没入するように細部を描いていくことで、その人の意識を超えた部分も出てくる、という。

保坂:
 一生懸命やればやるほど、その人の地が出てくるというか、その人の身体性が反映されてくる。そうすると、わりと揺るぎない全体ができあがってくるんです。人間は頭よりも体の方が複雑に出来ているわけですよ。頭自体は体だから複雑なんだけど、頭で考えることは体よりも単純なんですよね。だから、極力、体を入れて書いていくと、頭で考えることを軽く超えていくんだよね。だから、ほんとにひとつひとつを書くってことなんですよ。細部をきちんとしていく。細部っていうと、形容詞がいいの悪いのって、文章のいい悪いのレベルで考えてしまう人がいるんだけど、そんな問題じゃないんだよね。「なおやか」と「たおやか」ではどっちがいいかとか、そんなことは全然関係ない(笑)。その時に、何が見えて、何が聞こえるかっていうことを、きちんと考えていくっていうことが大事なんです。


 第4回では創作のヒントについてうかがう

第4回

 第4回では創作のヒントについてうかがう。

 保坂さんは現在も手書きで小説を執筆しているというが、保坂さんが感じる手書きで書くことのメリットとはなんなのだろうか。

保坂:
 デビュー作の『プレーンソング』を書いたのが88年、89年だったんですが、その時すでにワープロを持っていたのに、手書きで書いていたんです。それには、ひとつ理由があって、当時、会社員で、会社を抜け出して書いていたから、原稿用紙じゃないと書けなかった(笑)。ただね、そうしているうちに手書きの方が自分には合っているな、と。手で書く方が、憶えてるんですよ、書いたことを。それに、原稿用紙に書くと、枚数の展開っていうのが自然に感覚で入っているんだけど、ワープロだとそれが分からない。全部がすごく記憶しにくい。それが原稿用紙だと、記憶が空間に置き換えられるようなところがある。1枚1枚めくったりすることで、その空間が記憶される。ところがワープロだと、ほんとにどんどん切れ目なくスクロールしていっちゃうか、長さが本当に内容そのものになっちゃうんです、空間化されずに。ただ、そういう手段とか道具とかが合う合わないっていうのは人それぞれだろうから、とにかく、手書きもパソコンもどちらでもしばらく書いてみるとか、色々と試してみた方がいいんじゃないのかな。選択肢は極力いっぱい使った方がいいと思います。



 小説について考えてきた保坂さんは、その著書の中でも哲学の知識について記しているが、考える姿勢というのは、哲学から学んだものではない、という。

保坂:
 哲学の本を読むのは好きだけど、基本は小説なんですよ、全部。みんな、僕がちょっと哲学の本を読んだりするからそういう風な考え方をするんだと思っているんだけど、そうじゃない。そもそも小説自体がものを考えるためのメディアなんですよ。決まり切ったストーリーなんかを書いてたら、いくら書いたって、せいぜい少し取材能力が高まったりするだけで、ものなんか考えられないですけど、本来は小説っていうのはものを考えるためのメディアなのであって、僕は小説書いたり読んだりすることで、今、自分が考えているような考えを持つようになったんです。小説読んでボンヤリとしか読めない人は、やっぱり哲学だって読めないと思いますし、本当の意味で言えば、哲学書より小説の方が難しいし、注意力が絶対必要になるんです。



 真摯に小説と向き合い小説を書き続けてきた保坂さんだが、小説を書き続けていくコツのようなものはあるのだろうか。

保坂:
  いや、僕はあんまり小説を書いてないんで(笑)。次の小説を書くまでの時間がすごく長いんですよ、人より。だから、そのあいだ他のことをしていないと、まあ、収入がないっていうのもあるし、手持ちぶさたっていうのもあって、それであの『世界を肯定する哲学』みたいなものを書いてみたり、小島信夫さんと往復書簡(「小説修業」)をやってみたり、小説とちょっと接している他のことをやるんですよね。今もその時期ですね。だからね、人ほどコンスタントに書き続けてないんですよね。



 しかし、一作を書いて書けなくなってしまう人もいる中、保坂さんは自分のペースで一作一作丁寧に、書き続けている。

保坂:
 いや、小説ってね、基本的には一作を書いたら、次に書くものが出てくるんですよ。だから、書くものがないって思う人は、小説がフレームの中にあるものだと思っているんだと思いますね。きちんと枠のある中で何かを配置するものだっていう風に考えているんじゃないかと。小説って枠があるものと考えちゃいけないんだよね。そうじゃなくて、水が源流から湧き出したら、その水の流れはいつまでも続いていくじゃない。それでその流れは段々段々太くなる。小説もそういうものなんだよね。それを便宜的に、ここからここまでって流れの一部を取りあげるというだけで、流れは小説の終わりで終わっているわけじゃない。そこまで流れて来たことで、自然と続きの流れが出てくる。だから、枠の中のものじゃなくて、その小説がどんどん拡がっていくものだと思っていれば、一作で書ききったっていうことはないんですよ。



 その流れが実際に小説という形をとるためには、何かきっかけのようなものが必要なのではないかと思うのだが、「小説の自由」など小説について考えることは、次の小説に結びつくこともあるのだろうか。

保坂:
 それはあまりないですね。きっかけを探すっていうと短いスパンの動機付けみたいな響きがあるけど、そういうんじゃなくて、もっとずっと漠然と次の小説の向かう方向を手探りしているような・・・、ま、時間稼ぎですね(笑)。小説って社会の経済活動と別のところにあるはずなんですよ。だから、できるだけ働かないようにしないと小説家じゃないんですよ、本当は。寝る間もない売れっ子作家ってさ、ほとんど自分の書いた文章を読んでるだけだったりするわけじゃない。やっぱり、そういう人は小説を愛してないんですよ。だいたい、売れっ子になって20年は遊んで暮らせる収入が入ったんだったら、20年遊べばいいんだよね。本読んでぶらぶらすればいい。働いていると実は人間って頭使わないんですよ。「なんで生きてるのか」とか、「この世界ってどういうものか」っていうのは、働いている時には考えないようになっている。まあ、小説はかろうじてそういうことを考えるものだけど、あんまり全面的に小説を書いているとそういうことを考えなくなってしまう。だから、ほんとね、働かないことが、考えることに直面するんですよ。



 だから、書かないようにして書き続けていかなきゃいけないのだ、と保坂さんは言う。

保坂:
 ほんと言うと、小説家は働いちゃいけないんだよね。最低限のことでやっていけるようにしなきゃいけない。それが小説家の本来の姿のはずなんじゃないかなあ。みんなほんとに働きすぎだよね。だから、社会的な怠け者ってたくさんいるわけだけれども、そういう人って、第一に小説家には向いてると思う。ただし、小説についても怠けてる人はだめ。そこは怠けちゃいけないんだよね。それが現実にはさかさまになっていて、ほとんどの小説家と呼ばれている人が、社会生活においては働き者で、小説を考えることにおいては怠け者だったりする。小説ってさ、自分で小説について考えていないと、自分の書いた小説のいいか悪いかが、他人の判断になっちゃうわけでしょ? そうすると、いっつも評価が不安になってくる。でも、小説について考えていると、人よりも自分の方が考えているんだから、人の評価なんか気にしなくていいわけ、評価に左右されなくなってくるんですよ。そのためにも小説について考えることは絶対怠けちゃいけないんだと思う。


保坂和志● ほさか・かずし
1956年、山梨県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。

90年『プレーンソング』(中公文庫)でデビュー。

93年『草の上の朝食』(中公文庫)で野間文芸新人賞、95年に『この人の閾』(新潮文庫)で芥川賞、97年『季節の記憶』(中公文庫)で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞を受賞。

その他の小説作品に『猫に時間の流れる』『残響』『もうひとつの季節』(中公文庫)『〈私〉という演算』(新書館)『生きる歓び』『カンバセイション・ピース』(新潮社)『明け方の猫』(講談社)、エッセイ集に『アウトブリード』(河出文庫)『羽生 21世紀の将棋』(朝日出版社)『世界を肯定する哲学』(ちくま新書)『小説修行』(共著、朝日新聞社)『言葉の外へ』(河出書房新社)がある。6月30日には新潮社より『小説の自由』が刊行される。

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